椿姫は、なぜ椿を?原作のモデル「マリー・デュプレシ」の生涯

椿姫のモデル マリー・デュプレシ

オペラ「椿姫」を観ていると、多くの花がある中、なぜ「椿の花」なのか気になりませんか?

オペラは小説を原作としており、小説のモデルには実在の人物「マリー・デュプレシ」が存在します。マリーが愛した花、それが「椿の花」だったのです。

マリーは娼婦の活動として劇場に通っていました。劇場に行くのは、営業のためという面があります。「白い椿」(月のうち25日)と「赤い椿」(残りの5日)を身につけて人々の前に現れるのは、営業中かどうかをわかりやすくするためでした。マリーは何か欲しいものがあると、白い椿を身につけていました。

さらに椿の花に関わるエピソードとして、亡くなる直前の体調が悪い中、従者に抱えられて劇場に現れ、白い椿の花束を持ち華やかに着飾った姿を観客に見せています。

さて、その当時の高級娼婦の一生は、どのようなものだったのでしょう。

小説のマルグリット・ゴティエオペラのヴィオレッタのモデルと言われている、実在の女性「マリー・デュプレシ」の生涯を知ることで、当時の貧しい女性たち、高級娼婦の姿が見えてきました。

マリー・デュプレシの人生で、彼女の人生を変えたであろう出来事をあげてみます。

・14歳で、父により70歳の男性に売られた
→貧困と倫理観の低い社会情勢(周囲に助けてもらえず)

・公爵に出会い、貴族に見劣りしない社交術を教えられた
→庶民相手の売春から、貴族を相手にできるように

・子爵との間に子供が出来るが、子爵と別れ、子供と引き離される
→女性としての幸せが手に入らない絶望

3つの出来事により、クルティザンヌ(高級娼婦)の世界に入っていき、肺結核に倒れ、23歳の若さで亡くなりました。

実在の人物マリー・デュプレシ
小説(椿姫)
「椿を持つ女」La Dame aux camélias
アレクサンドル・デュマ・フェスマルグリット・ゴティエ
オペラ(椿姫)
「道を踏み外した女」La traviata
ヴェルディヴィオレッタ・ヴァレリー
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ノルマンディー出身の貧しい少女、過酷な生活

マリー・デュプレシ 地図

本名は、アルフォンシーヌ・プレシ

1824年1月15日に、フランスのノルマンディー(イギリス海峡に面したフランス北部の地域)で、貧しい夫婦の2番目の子として生まれます。

父「マラン・プレシ」・・・牧師と売春婦の息子・壊れた鍋を直す行商人

母「マリー・プレシ」・・・貴族と下男の娘

父、母ともに恵まれた育ちではないことがわかります。息子を望んでいた父は、ふたりめの娘の誕生を受け入れず妻を虐待。

母親は子供たちを連れて、パリに働きに出ていきました。ですが、8歳の時に母が死亡したため子供たちはパリから戻り、親戚の家に預けられます。奔放な性格だったのか、13歳の時に、相手は不明ですが初体験を済ませました。(複数説があり、貴族に襲われた、農夫に身を任せた)

そのことが原因で手に負えないと思われたため、親戚宅から父の家に戻されます。

14歳・・・父により、70代の男性に売られてしまう

父の家に戻ってきましたが、洗濯屋に働きに出されます。さらに、父によって70代の男性に売られてしまい、その金は父に奪い取られる生活。

その生活に耐えきれず職を見つけて逃げ出しましたが、父に連れ戻されてしまいます。父によってパリで下働きに出されますが、15歳の時、彼女の人生を振り回した父が亡くなります。

70代の男性に売られるのは、人生に深く悪い影響を与えてもおかしくない出来事です。

グリゼットから、パトロンを得て次第に貴族を相手にするように

グラモン公爵と出会う。名前を「マリー・デュプレシ」に変更する

1840年(15歳)ひとりになった彼女はパリで、洗濯屋、洋服屋などで働くうちに「グリゼット」になります。

グリゼット・・・表向きはお針子、裏で学生や一般人を相手に売春

プッチーニのオペラ、ボエームのミミもグリゼットでした。グリゼットをしていると、似たような境遇の女性たちの中から「美貌」に目をつけられて、貴族の男性から社交術を教えてもらう者が出てきます。

パトロン遍歴

レストラン経営者 → ギッシュ・グラモン公爵(若く美男) → 若い子爵

パトロンになってくれる相手は、貴族社会の者たちになっていきました。その中でも、ギッシュ・グラモン公爵は、若く美男で、彼女に貴族に見劣りしない社交術を教えてくれます。社交術と言っても、文字の読み書きや食事のマナーといったものです。

グラモン公爵と別れた後、彼女は本名の「アルフォンシーヌ・プレシ」から「マリー・デュプレシ」に改名することにしました。垢抜けない名前から貴族っぽい名前に、ということだったそうですが、日本人に名前の感覚的な差はわかりにくいですね。

当時、デュマ・フェスの「椿を持つ女」を読んだ事情通の人たちの中には、「アルマン・デュバル(主人公)は、ギッシュ・グラモン公爵ではないか」と言う者もいました。

若い子爵の子供を産む・・・子供と離される

1841年(16歳)、若い子爵と関係を結び、彼女は男の子を産みます。

子爵は子供と乳母を田舎に住まわせた後、マリーに「子供は肺炎で死んだ」と告げ、事実かどうかわからないものの子供とは離される結果に。

子供との別れによって、普通の女性の幸せは手に入れることができないとわかり、享楽的なクルティザンヌ(高級娼婦)の道を進むことになります。

クルティザンヌ(高級娼婦)の世界に入る

劇場に出入りして、気に入った男性と寝る生活

1842年(17歳)、昼に起きて新聞を読み、ピアノの練習。その後、公園に散歩に出かけ、軽い夕食の後、劇場へ。その後、食事。ダンスや賭け事をして夜を過ごす(夜の過ごし方はその時によって変わる)というのがマリーの日々の過ごし方でした。

当時の劇場は、出会いの場、不倫や密会の場、売春の手はずを整える場であったりと裏の面がありました。

オペラの途中のバレエシーンは、貴族が出演する踊り子を見定めて買うために用意されていましたし、カルメンは、お見合いで劇場を利用する人がいるのにふさわしくない演目(奔放なジプシーが死ぬ話)だと言われたこともありました。

彼女が劇場に行くのは、営業のためという面があります。「白い椿」(月のうち25日)と「赤い椿」(残りの5日)を身につけて人々の前に現れるのは、営業中かどうかをわかりやすくするためでした。マリーは何か欲しいものがあると、白い椿を身につけていました。

高級娼婦の仕事

・オペラ「椿姫」のようにサロンを主催して、貴族や著名人を招く
・同じ高級娼婦仲間のサロンに招待される
・貴族の舞踏会に招待される
・劇場の初演に訪れる・・・今でもそうですが、初演は着飾った人々が集まります

上記のようなこともしていましたが、劇場に着飾って行くのが生活の基本です。ひとりのとき(お相手募集中)もあれば、男性を連れていたり(仕事中)など。

原作にも出てくる、年の離れた外国人貴族が援助を申し出る

1844年(19歳)、ドイツの年配貴族が「亡くなった娘とそっくり」だからという理由で、教会の真向かいに家を買い与え、金銭面の援助を申し出てくれます。

売春の世界から足を洗うように手を尽くしてくれましたが、彼女は元の生活に戻っていきます。

マリーと交際したデュマによると、最初は娘として接していたそうですが、次第に体の関係を要求するようになったそうです。

デュマ、リスト、夫ペレゴー伯爵

デュマ・・・この関係を後に小説「椿を持つ女」に

1844年(19歳)、以前から彼女に興味を持っていたデュマは、マリーと恋仲になります。ですが、幸せな日々は続かず、破局。その理由は、金銭面で、彼女の贅沢な暮らしの面倒を見ることが出来なかったからです。

リスト・・・マリーを「マリエット」と呼ぶ

1845年(20歳)、リストとマリーの出会いは、彼女からのものでした。劇場のロビーでのことです。人々があふれ混雑する中に現れたマリーは、すぐに注目を浴びます。彼女が優雅に歩き出すと人々が避けてくれるので、上品な香りをあたりに漂わせながらロビーを通り、迷うことなくある場所に向かいます。そこにはリストと評論家がいすに座り談笑していました。

彼女はふたりの横に座ると、リストをじっと見つめ話しかけます。リストと評論家はマリーと面識がなく、誰か分からない貴婦人の振る舞いに驚きながらも打ち解けます。数分間でマリーはリストを魅了し、ふたりは話し込むほど意気投合しました。その後、リストは、マリーにピアノを教えるようになり、関係がより親密に近づていきます。

マリーと出会った頃のリストは、アイドル的な人気で世間を風靡した後であり、マリー・ダグー伯爵夫人と10年間の同棲生活の末に別れたばかりでした。夫人との間に3人の子供が生まれており、その中のひとりは、ワーグナーと結婚するコジマです。

ペレゴー伯爵・・・「イギリス」で彼女を妻にする、伯爵夫人に

1845年(20歳)、舞踏会にて。彼女はすでに恋人がいたペレゴー伯爵(銀行家の息子)に近づき、自分の魅力で虜にして奪い取ります。

デュマ・フェスの「椿を持つ女」のアルマン・デュバルは、ペレゴー伯爵という説もあります。

アルマン・デュバルのモデルになったと言われている人を表にしてみました。皆さん若い男性で、マリーにお金を貢いでいます。アルマンは、複数の男性たちをまとめた存在なのかもしれません。

アルマン・デュバル小説の主人公
ギッシュ・グラモン公爵最初に社交術を教えた
アレクサンドル・デュマ・フェス彼女の小説を書いた
ペレゴー伯爵結婚、マリーを手厚く埋葬

1846年(21歳)、ペレゴー伯爵とマリーは、フランスではなくロンドンで婚姻届を出します。この結婚でマリーは、ペレゴー伯爵夫人になることができました。貧しい庶民の娘から伯爵夫人まで上り詰めたのです。

ほどなく伯爵のお金が尽き、ふたりは別居生活になりました。マリーは、以前、年配の貴族が購入してくれた教会前の家に戻ります。

病魔の影、最期には、華やかに着飾って注目を浴びてからの死

「肺結核」の症状が出る。国民病であり、美化された病だった。

当時フランスでは、肺関連の病は、死因の3分の1を占めるほどで亡くなる人が多く出ました。他の死因として、梅毒、腸チフス、コレラなどがあります。

結核は、咳と吐血を繰り返しゆっくりと病が進行します。当時は原因が不明だったこともあり、美化されていた病でした。(結核は、空気感染、感染者の飛沫や唾液に触れることで感染します。)

デュマは小説「椿を持つ女」の中で、肺結核を天罰とは書かず、「贖罪」だと書いていました。似ているようですが、特にキリスト教徒には「神聖な意味」が含まれます。

天罰・・・神から与えられる罰、苦しみ(受動)
贖罪・・・代償を払い、罪をあがなうこと、キリストの十字架の死によって、人類の罪があがなわれた行為(能動)

病にかかっている本人からしたら、ただの病気なのだから関係ない話ですが、周囲の目には、肺結核にかかっている様子は儚く美的に感じられていました。マリーの死の原因が、肺結核でなく他の病だったら小説もオペラも出来ていなかったかも知れません。

マリーは、リストと一緒に旅行をしたいと申し出るが、実現せず

マリー・デュプレシ 病気の時の地図

1846年(22歳)、リストがパリに訪れた時に、マリーは「一緒に旅行をしたい」と申し出ます。

マリー

私はもう長く生きられません。あなたの旅行に同行させてください。一日中ゆっくり寝て、夕方から劇場に、そして夜はあなたの望みを何でも叶えますわ。

リスト

コンスタンティノープル(現在のトルコ)なら、あなたを連れて行くことができますよ。

その話は実現せずに、彼女はドイツの温泉地バーデン=バーデンに向かいました。ドイツからパリに戻ると、これまで以上に舞踏会に出席し、サロンを主催して散財して遊び尽くします。11月には肺結核がさらに悪化。病が治るようにお金を使い、あらゆる手段を試してみますが、どうにもなりません。

マリーとリストの関係は、マリーがリストに夢中であっただけで、リストにとっては人生に影響を与えるほどの女性ではなかったのでしょう。命が短い、体調の悪い女性にトルコへの旅行は遠すぎます。一応リストは、マリーが亡くなったときに、ダグー伯爵夫人(リストが10年一緒に暮らし子供をもうけた女性)に「マリーは魅力的な女性だった、惜しい人が亡くなった」とは言っていましたが。

体調が悪い中、白い椿の花束を持ち、喜劇の初演に出かける

1847年1月末、マリーはすでに末期の状態で、喜劇の初演に出かけました。喜劇の第1幕が進んだ頃、従者に抱えられたマリーが桟敷席に現れます。青白い彼女は「白い椿」の花束を手に持ち、着飾っており、人目を一気に集めました。劇の終わりと同時に来たときと同じように抱えられて、馬車に乗り去って行きます。彼女の姿を見た人は「すでに亡くなっているかのようだった」と。

1847年2月3日。マリーの最後の願いは「自分の母に会うこと」でした。ですが、マリーの母はすでに亡くなっています。その場にいた人たちは願いを叶えるために、マリーの出身地であるノルマンディー地方の農婦の格好をさせた女性を呼び、彼女の側に寄り添わせました。明け方に息を引き取り、23歳という短い生涯を終えたのです。

死後、小説と同じように、遺品が競売に掛けられる

ペレゴー伯爵が、マリーを墓地に埋葬する

葬儀は、夫のペレゴー伯爵や年配のドイツ貴族らが参列しました。フランスではなく「イギリス」での結婚でしたので、伯爵家の墓地に入るのは許されず、ペレゴー伯爵が大金を払い、モンマルトル墓地に埋葬されました。伯爵は花を絶やさないように、墓守にも大金を支払ったとも伝えられています。

モンマルトル墓地は観光名所としても有名で、スタンダールやドガ、ニジンスキーなど多くの著名人が眠っています。その中には、デュマがいます。家族の墓地ではなく、デュマはマリーの近くで埋葬されることを選びました。

親戚たちの手によって、マリーの遺品が競売に

男性たちを魅了したマリーの早すぎる死は、人々に興味をかき立てさせるには充分でした。マリーには借金があったため債権者たちによって遺品が取り立てられました。また、親戚たちによって、人々を見学させるためにマリーの住まいを公開、マリーの残りの遺品は競売に掛けられ、多くの人々の手に渡っていきました。高価な品から、使い古したハンカチまでありとあらゆるものが、売れていくのです。

当時パリに滞在していた「オリバー・ツイスト」などのイギリスの小説家、チャールズ・ディケンズは「この騒動は、多くの者に悪影響を及ぼす」と言い、眉をしかめます。

マリーの遺品は、飛ぶように売れたと言われています。当時マリーと出会った評論家によると「彼女は自分自身を偶像化する術を心得ていた」と言われており、マリーは、自分が身につけるもの(下着からドレス)から部屋の装飾までこだわりの品を手に入れていました。

デュマは、競売に群がる人々をみて、小説を書くことを決意

デュマは、北アフリカから帰国したマルセイユでマリーの死を知り、急いでパリに戻ります。そして、人々がマリーの遺品に群がる様子を見て、小説を書くことを決心しました。

世俗的な実話を、デュマとヴェルディが美化していった

実話にはいない、小説、オペラには存在する「アルマン(アルフレード)の父親」

「マリー・デュプレシ」の生涯を振り返ってみて、小説やオペラと違うところがあるのに気がつくと思います。マリーは高級娼婦の世界から足を洗うことはなかったですし、実話ではアルマン(アルフレード)の父親に当たる存在は出てきません。

実在の人物マリー・デュプレシなし
小説(椿姫)
「椿を持つ女」La Dame aux camélias
マルグリット・ゴティエアルマンの父親
オペラ(椿姫)
「道を踏み外した女」La traviata
ヴィオレッタ・ヴァレリーアルフレードの父親

マリーは死を目前にして、劇場に白い椿の花束を持って人前に現れているので、愛に生きた人生というより、高級娼婦として人生を全うした感じがします。

デュマがマリーを美化し、さらにヴェルディが美化した

デュマ自身が「マリー・デュプレシは、マルグリット・ゴティエと同一ではない」と、ある程度美化して小説に書いたと言っています。その後、デュマが戯曲に取り組む時も、小説からの時間経過(デュマの気持ちが落ち着いた)と検閲(舞台では下品なことはできない)があったこともあって、小説にあった下世話な部分(赤い椿や下品な言動)をさらにカットしています。

ヴェルディは、デュマの戯曲を基本にしてオペラ化しています。

ヴェルディ

「椿を持つ女」を手がけている。題名は、「ラ・トラヴィアータ」(道を踏み外した女)にするつもりだ。

「椿を持つ女」の意味は、「マリーは何か欲しいものがあると、白い椿を身につけてた」というところから来ていることを考えると、「ラ・トラヴィアータ」(道を踏み外した女)に題名を変えることで、世俗的な実話から、どの時代にも通用する普遍的な愛の物語に変える意図があったのでしょう。オペラの中で、ヴィオレッタは娼婦というより普通の女性、聖女のような振る舞いですから。

現在、「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」はオペラで一番人気の演目なので、「普遍的な愛のオペラにしたい」というヴェルディの狙いは当たったと言えます。

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